震災地域の産業復興へのプロボノ活用と制度化part2

前回のblogでの提案より3週間が過ぎました。
この間に、本件について知人とだけではありますが、二つほど意見交換をする場がありました。
その際に、先日のblogの内容をこちらに纏めて、意見を仰ぐことに致しました。


二つの意見交換の場で出た話はこのようなものでした。(ここでは敢えて、否定的な見解のみ記載します)
●産業復興全体のスキームが分からないことには、この提案が有効かどうか判断が出来ない。
●本件は東京が考えるスキームで、被災地や周辺地域の産業の実態ニーズを把握できていない
●ボランティアとは、行政や組織に頼らないで行うべきものであり、それらを必要とするもの
 はボランティアの域を超えている。

 こうした批判的なご意見は、ある意味で全て正しいものだと思っています。ただ、そういう意見が個人への批判と発展するのでしたらそれは残念なことであります。しかし、それでもこれらの批判は正しく受け止めたいと思っています。
 
 震災後1ヶ月が経ちましたが、ここへ来てようやく東京で活躍されている民間の産業人や企業人の方も被災地に入り、レポートされることが増えてきたと思います。言い換えれば、それまではやはり物資や救助が優先だったわけです。
 一方では、被災地域といいましても、その産業へのダメージは様々で、全てを壊滅的に失った地域もあれば、比較的早くに操業開始できたが経営資源や販路、あるいはロジスティクス上の問題や風評被害などの問題など、抱えている問題は内容・程度ともに様々なのではないかと想像します。

 そのような状況の中で、いよいよ現地のニーズが顕在化してくる頃であり、それを聞くことができるタイミングになってきたと思っています。上記のスキームはプロボノが活躍できる可能性を検討した「仮説」でありますし、プロボノが復興支援に本当に役に立つのかどうかはまだ全くの未知数です。
 震災の復興も経済も、本来こうした人々の活動の基本の一つに「Give & Take」がありますが、与えられる側は何をどのようにして提供できるのか、与えられる側はどのような場合に何が必要になるのか、をそれぞれ考えておくことは決して無駄ではないと思います。

 そういう意味でも、引き続き少し長いスパンで、産業人の高度なナレッジやスキルがこうした災害の復興にどのように貢献できるかを、考え続けたいと思っています。もちろん、考えるだけではなく、可能な限り現地の方々との交流や意見を伺いながら、また出来る限りのサポートもさせていただきながら、つまり「走りながら」考えていくつもりです。

 プロボノとしてできること、それ以外にできること、今後も試行錯誤色々あるとは思いますが、これからニーズを出来る限り確認しながら考えていきたいと思います。
 
 「できない」なら「やらない」のではなく、どのようにすれば出来るかを考える。
 「間違っている」なら「やめる」のではなく、何が正しいかを再度組み立てて挑戦する(try & error)
 
いみじくも、常々ビジネスではよく言っていることでした(苦笑)。実践しなければ...

 現地の産業の状況についても、色々とご教示戴きたいと思っています。現地の方や現地にいかれた方のご意見が大変ありがたく思います。

 まだまだ個人的見解ではありますが、今後も進展をご報告できれば良いと思っています。

震災地域の産業復興へのプロボノの活用と制度化

 この度の筆舌に尽くしがたいほどの震災で、大きな被害に遭われた方々、また今も避難所や自宅待機などで不自由な状況にある皆様に、心からお見舞いを申し上げます。

 災害から数日が経ちましたが、ようやく被害の全貌が見え始め、一方では避難されている方々の生活はいまだ困窮している状況がマスコミなどで連日報道されています。
 私自身もそうですが、被災地の報道やニュースなどの見る度に心がちぎれそうなくらいの悲しみを感じ、自分にも何か出来ないかと多くの方が感じておられるのではないかと思います。活躍されている自衛隊や消防、警察の方々やNPOなどのボランティアの方々のご活躍を心より応援している毎日ですが、一方では自分は何ができるか?と感じている人も多いと思います。

 今回の震災は産業的なインパクトとしては、今回の震災での損害額は20兆円超とも言われ、日本経済への打撃は計り知れないものがあります。これは震災(原発事故も含む)の方々の産業が壊滅状態にあることを意味しています。経済は心理学的な側面での影響が強いことも考えますと、この地域での産業復興こそがまさに被災した地域だけでなく、日本全体の産業活性にも強く影響するものと思います。一日も早い経済復興が必要であると思われます。
 しかしながら他方においては、産業界は東京も含め、東北・北関東エリアからの撤退、西日本への移転を図るなどして自社経営の防衛にも必死です。経営として、自社の存続や利益の確保は当然の行動ではありますが、サラリーマンの方で上記のように「自分も何か役に立ちたい」と思う方にとっては、ある意味で冷徹と感じられる意思決定も存在します(『当社はなぜ自社の利益を優先して復興に協力しないのか!』等)。

 「自社の利益を優先」とする企業と単純な財政政策だけに経済復興を期待するには時間的にも厳しいものがあります。官民が復興に対して協力していく必要がありますが、この「民」は企業というよりもさらにもっと「個人の力」にも頼っても良いのではないかと私は思います。
 
 そこで、提案があります。

 私は、プロボノ(専門的知識を持つ者が、無料でそのサービスを行う事で社会貢献を果たそうとする活動)の団体に参画しています。プロボノ団体は、いくつか対象や成果物にいくつかの違いがありますが、主にNPOやそれ以前の団体、組合組織や中小・ベンチャー等の法人や経済団体に対して、WEBやシステムの開発、各種コンサルティング等のサービスなどを提供しています。多くの会社員の方、専門知識を持つ方、が東京を中心に活動を開始しており、いくつかの団体や個人が活動されています。

 このプロボノ活動を、国の緊急的な経済復興支援策の一つ、「経済ボランティア」施策として展開していただきたいと思います。
 以下、思いつくままにガイドラインを記します。

●暫定的なプロボノの支援団体を、官民共同で新設する。
●復興地へ提供するプロボノでの各種サービスは、原則無料支援とすること。
プロボノ支援団体は、経済産業省はもとより、被災地及び周辺の省庁及び下部団体や商工会、
 中小企業支援センター、その他民間等の団体と連携を図り、地域経済の復興を図る。
プロボノに参加する人材は、企業に勤める人材を中心に自営業者、NPO等も参加可能である。
●企業がプロボノを派遣する場合、人材の現地への派遣する期間や経費などについては、人材の
 意思と会社の同意により決定する。
●企業は、プロボノに参加する人材を募ることができる。但し参加は全て人材の意思によるもの
 であり、企業は強制的には自組織の従業員にこれを課すことは出来ない。
●企業は自社の人員を参加させないが、資金のみで応援することも出来る。
 (1口1万円〜寄付での扱い)
●個人がプロボノに参加したい場合には、原則として所属勤務先の同意を必要とする。
 ただし、①上記団体が必要な人材としている人材、②個人も参加を希望している場合、の両方
 が満たす場合には、企業はこれを断ることができない。
●本施策に関する経費勘定は寄付も含め全額損金扱いとし、同額を法人税納付金額より一部免除
 されることとする。
etc...

このようなプロボノ団体の新設は、「日本株式会社」における“インハウス型総合サービス部門”として、国難の際の産業横断型組織と捉えらればよいと考えております。日本株式会社の危機ならば、日本のビジネスマン全員が危機に対処するべきではないでしょうか?
 
 経済の復興には、人、金、モノ、情報、そして何より「知識」と「熱意」が必要と思います。
日本企業全体の問題として、今後地域をサポートしていくためには、企業も単なる義援金のみならず、積極的に人材やナレッジの提供も行って行くべきではないでしょうか。本来企業は大規模であればあるほど、社会基盤の上に成り立っている存在であり、社会に貢献できることは企業として誇らしいことです。こうした企業は日本のみならず世界にも広く知れ渡るようにすることで、企業にとっても事業上のメリットを出すことができるようにすべきと思います。
 被災地域の方々や地場産業は勿論、応援する人、企業、諸団体、国や地方公共団体、の全ての方々が、困難に立ち向かうことで出来るだけメリットを受けられるような仕組みであるべきだと思います。
 
 以上、稚拙な内容ではありますが、何か役に立ちたいサラリーマンや専門知識を持つビジネスマンの声として、より多くの聡明且つ志のある方々に伝われば幸いに思います。
 

新しいビジネススクール

 今月号のハーバードビジネスレビュー(以下、DHBR)の記事で、ケンブリッジ大の教授の記事の中に、気になる記事が書かれていた。

 「ケンブリッジ大学MBAプログラムの卒業生を対象にアンケート調査を行い、同プログラムでの経験が役に立っているかを5段階で評価してもらった。卒業生が最も高く評価したのは、『教室の外で学んだこと』だった。」
(アンケート結果)
 4.3  ビジネススクールで得た授業以外の経験
 4.2  コンサルティング・プロジェクト(実際の企業でコンサル実習)
 4.0  戦略やリーダーシップに関する授業
 3.5  個別の主要な需要

 さらに、同氏は、「何よりも先ず、マネジメント教育は協働(コラボレーション)を学ぶべきだ」としている。
 
 この結果はとても自分にとって興味深い。
 
 先日、ここで、「社会人2.0」ってタイトルで書いた。
 実は、最近ソーシャル的な活動や企業を超えた対話や問題の共有を行う活動をしている方々とよくお会いし彼らを新しい社会人像として「社会人2.0」と(勝手に)名づけた。勿論、ボランティアやNPO等本格的なソーシャル起業家の方も増えているのだが、昔は大学を卒業して勤め人になることを「社会人」と呼び、こうした人たちが今の企業に勤めながら新しい社会との関係性を模索する様が自分には、社会人の『進化』に見えたからである。

 MBAといえば、なんといってもマネジメントや経営コンサルタントの登竜門であり、経営の専門知識も豊富であるが、上記のアンケートによれば、どうやら単なる高度な「“形式知”の吸収」から、「“暗黙知”の共有」に、その価値がシフトしているように思える。MBAには、多くの社会人や社会人経験者がいることから考えても、この価値のシフトはビジネススクールのあり方を変革するキーワードになるかもしれない。
 
 少し大胆なことを言わせてもらえるなら、このような結果から思うに、「ビジネススクールは、何も大学にある必要はない」と思う。
 もちろん、大学生がそのまま学問として経営の専門知識を学びたいというのはとてもすばらしいことだが、実際にはその価値は上記のアンケートによれば、あまり高い評価にはない。必要としているのはコラボレーションである。
 そしてそこでの中心となる存在は、この「社会人2.0」の人たちではないだろうか?
 
 もちろん、協働するには、各々の基本となる知識や、価値を生み出すために何を貢献できるのか、という部分がある程度は必要になるだろう。
 しかし、今必要なのは、多様な知の協働であり、そのような「場」こそが、今後の“ビジネススクール”となっていくような気がしている。
 
 自分自身でも、今後そのような場作りに、関わって行きたいと思っている

専門職のジレンマ

 複雑性とスピードが企業の経営現場でますます重要になる中で、企業の人事部門は、これまでの定期的なジョブ(人事)ローテーション制を廃し、部門の中での専門領域の強化としての育成にシフトしてきた。1人が様々な業務をこなさなくてはならない中小企業の人材に比べ、大企業ではこの10年間ほどの中で、より細分化、専門化された領域でのスペシャリストを目指すような施策をしている。簡単に言えば、人事異動は極力控えて現行部署でのより深い専門スキル習得を目指している、と言うことができよう。

 この施策・方向性は、今でも人事部門の教育・育成計画の中では、「むやみな」定期ローテーションよりもよほど業績への貢献に即している、というように理解されている。また、社員側においても、なれない環境で一から新しく知識を習得するよりも、専門性を深めることは好ましいことと理解されている。特に30代以上の社員にとって、キャリアとは無関係な単なるローテーションの異動はとても歓迎できるものではない。そんな風潮もあるためか、人事異動を宣告されることは組織内での専門家への道からの脱落を意味する場合もあった。相対評価を行う組織ではしばしば高得点を与える人員枠があらかじめ決められているため、異動予定者に高い評価を行うこともなかった。
 いつしか異動する社員は(いくつかのケースを除いて)「負組み」とも捉えられるようになっている。

 しかし、このような企業の人事施策は、実は個人のスキルにだけ焦点を当てた狭い視野での話であり、個人が組織との関係性の中で成長しプロフェッションを学ぶ課程とは、実は全く相反するものである。
 むしろこれまでの考え方や施策は「近視眼的」であり、社員や組織の成長を阻害している可能性が高いと考えている。
 
 ここで、次のような例を挙げてみたい。

 X社は電子機器メーカーである。またY社はその子会社で主にソフトウェアの製造業である。昨今の経営情勢からX社の経営陣は、自社グループの商品をよりよくプロモーションすることを強化するような経営施策を出した。Y社はこれまで親会社のX社とは事業領域が異なることから独自で商品のプロモーションや広告を行ってきたが、上記親会社の方針に則り今後はX社の宣伝部と連携することになった。

 A氏は、X社(親会社)の宣伝部に属している。また、B氏はY社の商品企画部門に属している。二人ともこの道20年近いベテラン社員で上司の人望も厚い。
 この度、新しいソフトの製品をリリースする事になったため、B氏はA氏に相談をした。しかしA氏の反応は悪く、「ソフトウェアのコンセプトがいまいち見えない」という理由でプロモーション企画書を差止めた。Y社のこの製品は近日中にセミナーで発表することになっていたためB氏は当惑し理由を求めるのと同時にセミナーの企画やネット上での広告記事は(A氏忠告を無視して)そのまま予定通り進めた。
 二人とも部門ではエース級人材であったため、互いが上司に状況を相談したが、結局はX社の広報部長とY社のマーケティング役員で数度の会談を行うにまで事態は発展した。しかしそれでもなお決着がつかなかったため、最終的にはX社のY社管轄担当役員に指示を仰ぐことになった。結果、『セミナーは実施するも、ネットやマスコミへの商品発表リリースは控え、企画案も再考せよ』という妥協案になってしまった。

 半年後、このソフトウェアの売れ行きは、当初の予測をクリアできず、販売政策の見直しを余儀なくされている。原因は、中途半端なプロモーションがもとで顧客への訴求が不十分であったことが、代理店に実施したアンケートで明確になった。経営陣はさらに原因追究するように指示を出した...
 
 A氏もB氏も、社内では「エース級」であるが故に異動経験がなく、どちらも相手の立場を経験したことはない。自らの「顧客はこう思うはず」という専門家意識に囚われ、最終的には互いに理解しあえないまま業績にも影響している。これを「組織の壁」として理論付けして片付けてしまうことは簡単かもしれないが、それでは何の解決にも至らない。

 問題は、互いが相手の立場を理解しながらゴール(ここでは製品のリリースの成功)に向かうことができず、自らの専門性に固執したことに起因する。
 互いの主張の真意(→つまり宣伝や商品企画がそれぞれ顧客とどう向き合っているか)を理解しようとしたか、あるいはそれができたかが重要になる。
 なぜ、お互いがお互いを理解し合えないのであろう。

 ・一つの職種に長く所属していることが、多様な価値観を認めなくなってしまった。
 ・そもそも彼らはエース級人材(マネージャー候補)と周りから認知されていたため異動はなかった。
 ・自部門のエースの主張のため、上司と言えども説得と解決に導けず事態が悪化した。

 上記には、X社の全社的な人事部門や方針は全く出てこないが、人材の考え方、組織のあり方、に強く起因した問題である。
 上記担当者の片方が、もしも新人や若手だったらどうだろう。おそらくはもう片方であるベテラン社員にリードされる形で、多少いろいろあってもリリースには原案よりもベターな形でプロモーションできたかもしれない。

 ではもっともベストの形は何か?

 A氏、B氏が、お互いの職務を経験させる施策を継続することで、社内に協力する風土を生むことである。自分の経験が大事なものなら、それを今担当している人や部門にも一定の理解と敬意があるのが普通である。片方だけではなく互いがそうならば、さらに相互理解は早い。それによってさらにより良い商品企画やプロモーション手法を開発することも可能になるだろう。
 
 個人を異動させず、『専門化』というもっともらしい理由で、特定職務に長期間着手させることは、結局は組織のためにはならない。これを人材の“塩漬け”という。“塩漬け”は成果が出ないため、専門家としての実績も最終的には積むことができない。言葉を選ばずに言えば、専門職育成のために特定部門に縛り付けるような人事施策は、個人の怠慢と組織の長及び人事部門が目先の利益やエゴに固執した「施策の罠」といえる。

 
 社内のボランティア的な働き方や、プロボノなどの活動は、こうした「罠」から個人を解放する一つの方法なのかもしれないと思う。

社会人2.0

 ここ最近、働く人たちにとって大きなうねりのようなものがあると感じる。ちょっとした“ソーシャル”ブームと言ってもいいかもしれない。

 「ソーシャル」といえば、一昔前はSNS等のソーシャルメディアをさしていた。今も、もちろんこうしたメディアはさらに隆盛しつつも、よりリアルな活動をソーシャルと呼ぶことが増えてきている。
 例えば、私自身が昨年より参加している二つの活動、プロボノやワールドカフェ等の場も、社会に対する「貢献」の程度の違いこそあれ、ソーシャルな活動といえると思っている。そこで出会う人々は、現役企業人はもとより、元コンサルタントや元大手企業社員で今はNPOの理事や事務局という人も多い。
 さらに最近は、ある程度年数を勤めた企業人のみならず、若手社員から退職後のボランティアまで増加傾向にあるように思う。若者の雇用難が叫ばれる中、NPOなどに就職したり社会起業を志す者も多いと聞く(その是非は別としても)。

 こうした傾向がなぜ今生まれてきたのだろうか?

 もちろん、一つにはリーマンショックにおける現在の資本主義に対するアンチテーゼみたいな風潮がこうした動きを加速させたことは否めない。またそれより以前から米国のMBA出身者がコンサルや金融業界で一定期間務めた後、社会起業を志し、NPOを作ることがちょっとしたブームになっていたということも関係するかもしれない。日本を見てみれば、企業の組織風土の悪化やモチベーションの低下、デフレ経済による社会問題(例えば、過重労働や心の病等)なんかも、現役の企業人に関係する社会性のあるテーマだったと思う。
 その昔、「ボランティア」といえば、障害を持つ人や海外の発展途上国支援というのが定番だったが、最近はもっと身近なテーマに社会問題がフォーカスしてきているように感じる。
 
 いずれにせよ、最近の非常に興味深い傾向として、現役の企業人が今の企業に勤めながら、新しい社会との関係性を模索し始めるような活動が増えたということが挙げられる。

 昔、企業は(少なくとも戦後の日本では)社会にとってモノやサービスを提供することで社会に便益を生み出す、つまり「社会善の提供」を目的とし、企業もその認識が強かった。事実、新しい商品を次々に開発するだけでなく、世界一の品質にこだわる経営姿勢も、こうした『社会善』が根底にあったように思っている。

 その証拠に、日本では学校を卒業して企業に勤めることを、「社会人になる」という。社会に善を提供する「企業」の一員になることで社会に貢献する一員になるという意味であろうと私自身は理解している。
 
 ところが今は、企業側に社会的意識が減ったのか、あるいはそういう風潮がなくなったのかわからないが、企業に勤めることが社会に果たして貢献しているのか、ちょっと怪しく感じられるようになってきたのではなかろうか?
 もちろん、今でも「社会人になる」という言い方はあるが、現実的に企業マンは多忙であり、その多くは細分化された業務領域の中で、経営ビジョンや理念などに携わることは少なく、あるいはすばらしい理念と目の前の成果主義との両立など、より難しい課題を与えられている。自分が働くことで家族は養っているが、世の中の役に立っていると実感できる機会はむしろ減ってきているのかもしれない。

 こうした背景から、一部の企業人が今の企業に勤めながら、あるいは「食う」仕事を別にきちんと持ちながら、ソーシャルな活動に参画するケースが増えてつつある。
 企業に務める社員間のつながりを求めたり、プロボノでのNPOベンチャーなどへの貢献、IT系の新しい懇親会イベント、等、この2年でかなり増えてきている。

 このムーブメントは、全体的には奨励するべきと思っている。企業に勤める「社会人」が、自社に篭ることなく、また自社の業務と両立しながらも新しい「社会性」を構築したり、もっと具体的にNPOベンチャー企業を支援することなどは、これまでの社会人とは少し異なった“社会人像”ということが出来るかもしれない。本来は企業がもっと社会性に目を向けた事業理念を持つべきかもしれないが、自立した個人がこのような社会貢献を意識し始めることがきっと明るい未来を構築し、やがては企業をも動かすことが出来るのではないだろうか。

 自分はまだまだこうした新しい社会人像の駆け出しではあるが、先陣を切っている諸先輩の方々に敬意を表して、こうしたソーシャル性を持った企業人や団体の人たちを「社会人2.0」(笑)とお呼びしたい。

 そういう意味で、自分もようやく「社会人」デビューしたなと思う。遅いけど(苦笑)。

リーダーシップの要素

 リーダーシップが不足しているといわれて久しい。
政治から、企業、あるいはちょっとしたサークルやPTA,町内会でさえも、リーダーは不在しがちだと言われている。

 リーダーとは一体どのような人物なのであろうか?所属する団体の種類によって、リーダーシップ像は異なるのであろうか?あるいは団体や組織の習熟度によって変わるものなのであろうか?組織の風土によって変化するものなのであろうか...?

 おそらく、その組織や置かれている環境、タスクやミッション、風土や個人の属性、など多くの変数がリーダーシップに影響を与えていることはまず間違いないと思う。

 そんな中でも、以下の特性については、真のあらゆる組織のリーダーに共通する特性ではないかと考える。
 これらは、必要条件ではなく、また充足要件でもない。3つともそろえば理想的であるが、一つしか持っていなくともフォロワーによって支援される場合もあると思う。


◎リーダーシップの要素

「理想や志を常に持ち、ビジョンを描く

 多くのビジネススクールに限らず、経営組織論では、このような性質をリーダーシップと捕らえる傾向が強い。おそらくはスピードが速く変化の激しい経済・社会環境にあって、組織を導く力をこの資質に求めているのだろう。
 ただ、注意したいのは、「ビジョンを描く」というだけなら、実はリーダーのみならず、卓越したフォロワーにもできる作業であるということである。
 「そんな企業や組織ではダメだ!」と言われるかもしれないが、実際には経営者はビジョンを口頭で、曖昧に、思いつきに近い形で、語ることが多い。実際にはこうした「金言」を紡ぎ仕上げるのは参謀としてのチームがやることが多い。さらに言えば、コングロマリット型の企業でなくとも、経営方針から来た事業方針は事業部長や部門長及びそのスタッフが作成している。

 重要なことは、「ビジョンを描く」よりも、理想や志を高く、広く、深く持てるかということである。
これが常に誰より強く持っているなら、「ビジョン」等は誰に描かせても実は大差ない。


「誰からも、学ぶことができる」

 リーダーは時として頑固であり一途であるほうが、皆を引っ張っていきやすいと考えられてる。
しかしこれは、変化が早く、様々な危険や困難が伴う時代や環境にあってはマイナス要因となることが多い。
変化の激しい環境下にあっては、「ベストに固執する」のではなく「絶えず流動的にベターを選択する」ことが実は「ベスト」に近づく道である。そのため、リーダーは誰よりも多くの人から学びを乞うことができなくてはならない。また、リーダーは「人」から学ぶだけでなく、文献や環境、経験からも学ぶことができなくてはならない。
 よく、リーダーはメンバーの中で一番経験の多い者が担うことが多いが、これはあながち間違いではない。しかし単に年齢や経験数だけではなく、他人の失敗や自分の少ない失敗からでも多くの内省ができることが、リーダーの資質に欠かせない。


「フォロワーを愛している

 リーダーは、フォロワーなくしては存在しない。
 リーダーはフォロワーに愛されることが必要であると思われがちであるが、これは順序が逆である。
 真のリーダーは、生まれながらのリーダーでも、誰かその上位の者が決めたわけでもなく、それはフォロワーによって選出されるのが妥当である。つまりリーダーはフォロワーが生み出すもの、といえる。神が人間を創造したならば、神はリーダーではなくフォロワーであり、人こそがリーダーということになる。
 このようにして選出されたリーダーは、フォロワーを愛する。フォロワーへの愛がなければ、組織への献身は生まれず、結果として理想や志を高く持つこともないであろう。


 いささか極論じみてはいるが、おそらくこの三つの要素こそが、リーダーシップの要素なのではないかと考えている。もちろん、様々な環境や条件などの「変数」によって、リーダーシップの要素は無数にあると考えられる。しかしいずれの場合でも、上記の三つが欠ければ、そのリーダーシップは本物ではないか、長続きしないものではないかと思う。
 

若者の雇用についての独り言

 リーマンショック以降、景気が少しは戻りつつあると思われていた日本企業だが、若者の就職率は下降の一途を辿っている。一昔前の就職氷河期時代では、新規の雇用が企業の景気の調整弁になっていると批判されたが、それはもう昔のこと、今は調整弁にすらなっておらず低迷を続けている。多くの大手企業がこのデフレ時代を生き抜くために、“自社だけは利益を確保したい”と考えるために、逆に雇用が抑えられ結果的に消費が増えずデフレが進行する様は、まさにゲーム理論の「囚人のジレンマ」そのものに映ってしまう。

 そういう意味で企業は人材を“未来”とはみなさず、“コスト”とみなしているようにさえ思える。

 そんな中、「大手企業ではなく今は中小企業への就職に目を向けるべき!」と、学生側、中小企業側、そしてマスコミ側なども連日紙面を賑わしている。しかし現実にはそう簡単ではなさそうである。

 理由はこんな感じだろうか...

・学生側は、賃金相場の低い中小企業にはあまり魅力を感じていない
・中小企業側は、新人よりもむしろ即戦力を期待しているので以外にハードルは高い
・どのような中小企業がどのような募集をしているか、情報が不足している
・中小企業側にも、雇用を増加するどころか、雇用自体を見送る企業も多い。

 上記のような理由によるミスマッチは非常に残念なことである。

 自分は、バブル期入社世代であり、また学生時代は正直あまり勉強していなかったし(かといって、バブル期にある典型的な学生像とは真逆だったが)、職業や社会についてなんてまじめに考えていなかった。今の学生の方がよほどしっかりしているように思う。
 そういう自分なので、若い世代の人、特に自分の同時期よりも明らかにしっかりしていそうな優秀な学生の人達が就職できない・しない様を見ていると少し気の毒になる。だから、若い人に「中小企業に就職すべきだ!贅沢言うな!」とは自分には言えない。

 また、自分は中小企業のコンサルティングを志している。
 中小企業は、日本の経済のダイナミクスを支える重要な存在である。中小企業に優秀な人材が行くことは、日本の将来を考えるにすばらしいことだと思う。だが、自分はまだそんな中小企業を支えることを生業とするには至っていない。今も企業(しかも一般に言うところの大企業)に勤めている。
 
 だから、自分自身は、このような話を聞くと、とても申し訳ないような、自分も何かしなければならないような気になるのである。

 そこで、今回、少し政策的な提案をしてみたい。(もちろん、個人的な戯言に近いが。)
 
1:法人税5%減税の対象となる「大手企業」については、当該年度の採用人数が、全社グループの人数合計の1/37を下回るのであれば、一人当たり500万円程度を「特定目的税」として徴収する。

2:この「特定目的税」は、次の二つの活動への補助金として分配される
 ・中小企業の雇用に関するコスト
 ・中小企業経営を支援するコンサルティング事業へ分配
 
 まず、1について。
「人数の1/37」の根拠については、一般に定年60歳として、大卒者23歳で就職すると37年間勤めることになる。言い換えれば、37世代の人がいることになる。大企業の中での世代のいびつな凸凹をなくすために、各年代で同一の人数がいるようにする。これを促進するために、1/37未満の採用には、特別に税金をかけるものである。尚、金額の500万は、新卒2年分ほどの給与だが、特に根拠はないので、当初は2,3百万円でも構わない。

 2については、「大企業が雇用しなかった」ことで徴収した税の社会的配分を目的としている。そこに中小企業の雇用コストは当然だが、ここで言いたいのは中小企業支援対策としての分配である。
 中小企業がなぜ、雇用が苦しい、あるいは学生から見て魅力が薄い、かといえば、やはり給与水準と将来の安定性であろう。中小企業の経営をを中長期的に、しかも抽象企業自身の負担を減らした形で持続的に行うには、様々な政策が必要になる。今でも特定の人材の雇用については補助金が出るようになっているが、これを経営サポートする側にも分配することで、経営サポートが安価で且つ持続的に行うことができるようになる。
 むしろこうした使い方の方が、ただお金を渡すよりも、長い目で見て中小企業の経営を持続可能にするのではないかと考える。

 と、まぁ少々手前味噌な理屈になってしまって恐縮なのだが、本来の政府や税の役割から見て、あながち間違った政策ではないのではないか。

 方法は上記がふさわしいかは別としても、日本を支える若者と中小企業を支えることこそ、経済的なソーシャル性をもった政策であり、重要なことではないだろうか。勿論、そのような制度があろうがなかろうが、自分も少しでも今の仕事やプロボノなどを通じて、お役に立てればよいと思っている。