人材時価主義について

 経営資源には従来の3つ(人、モノ、カネ)に加えて、“情報”の4つがあるというのが昨今の共通した見方ではないかと思う。(諸説あるがここではあまり触れない)

 変革やスピードの激しい現代においては、その資源の価値自体においても時間的に急速にまたランダムに変化するものと認識されている。
 例えば「カネ」については、従来の簿価評価から時価評価への会計などの制度変更によって、急速にファイナンスにおけるタイムバリューの概念がこの十数年で進んできたように思う。
 また、モノについては従来より減価償却など時間的な価値の概念(ここでは価値の目減りだけだが)があった。食品や化学工業などでは、原材料の陳腐化を防ぐための工程管理手法が日本の工業品質の一部を支えているといっても良い。ある意味でモノについて時間的な価値の変化は当然とされている。
 情報については、もともとがドッグイヤーからマウスイヤーへ、開発についてもアジャイル概念など、時間的価値についてはおそらく一番ドラスティックであろう。twitterなどでは(フォロワー数にもよるが)、30分前の書き込みを見逃してしまうことで、商機を逃すコトだってある(かも)。
 
 それに対して、「人」はどうか。
 
 企業(特にそれなりの歴史のある大企業や官庁等)は、城繁幸氏の指摘するまでもなく、「年功序列」思考を、産官ともに未だに引きずっている。おそらく、「人」の部分は「経営資源」といわれている中ではその最も時間的変化の概念が乏しい。例えば、部長職にあった者がリストラでもなんでもない限り平社員になることはまずないし、入社してからまだ日の浅い社員はどんなに能力が高くとも、先ずは現場から経験しそこで成果を出さないと次のステージにはいけない。

 理由は様々なことが考えられる。これまでの企業の人事の問題、賃金の考え方、経験者のスキルが未経験者より高いと言う常識、社会認知、儒教などの影響...数えれば枚挙に暇がないくらいある。長い歴史で積み重なった考えはそんなに簡単に崩れたりしないのかもしれない。

 しかし一方で、この年功序列の発想が組織を硬直化させ、組織のイノベーション力、開放性、ダイバーシティ、を阻害し、若手の就職難の問題や、あるいはデフレまでの原因になっている可能性もある。年功序列は以前は「日本的経営の三種の神器」などと呼ばれたが、今はおそらく大きな足かせになっているのではないか?社会や経済の変化に対応できなければ、様々な別の変数によって、「昔の強みは今の弱点」になっている可能性もある。

 自分もそろそろ「年功序列」の恩恵を受け始めてよい世代かもしれないが、ここであらためて、年功序列をあらゆる組織から撤廃する考え方を提唱したい。

 それが、「人材時価主義」(いささか名前はチープな感じがするが)である。
 
 「人材時価主義」とは、一言で言えば、今現時点の実力や貢献度で人を評価する、リーダーを選出する、というシンプルな発想の仕組みである。「そんなの当たり前ではないか」と思う方も多いと思う。世の中全体、マクロではすでにそうなっている部分が多い。しかしミクロ単位の“組織”においては、特に上記のような企業や官庁では、なかなか進展しているとは言いがたいのが実態である。
 
 では「人材時価主義」にすると、一体何が変わるのか?

 簡潔に言えば、「年齢」「性別」「国籍」等による人物的評価から、「貢献」「成果」「プロセス」という行動評価へ変えることを意味している。そしてその評価を担保するのは、従来の一部の権限を持った者(例えば企業なら上司)ではなく、むしろそれによって影響される組織内外のステークホルダーである。

 そもそも、「年功」という発想は、二つの考えがベースとなっている。
 一つは、若いときの努力や功績を後になって報いる、という点である。若いときからリーダーシップを発揮したり、具体的な成果を挙げることによって、そのパフォーマンスならとリーダーに後から任命したり、給与水準を上げる、といった考え方である。

 もう一つは、歳をとっていればいるほど、人は経験による学習が成されており、経験のない者と比較して優秀だという考え方である。一昔前の企業人事評価における「能力主義」はこの考えがベースにあった。

 実はこれらは二つとも本質的な点を忘れている。それは、「時間」である。

 全ての「価値」は、経時的なものである。永久的な価値などは存在しない。なぜなら、全てのモノやコトは時間の制約の上に成り立っているからである。その観点で言えば、人の価値だけが、そのときの価値の評価ではなく、過去の価値やこれまでの積み重ねであり、そこでは時間の経過によって人の価値は目減りすることはあまりないことが前提になっている。したがって歳をとるごとに価値は上がり続ける。
 果たしてそんなことがあるのだろうか?

 人間は新しい記憶や知識を作ることができる一方で、物を忘れたり昔できたことができなくなったりする。その人の人間の価値ではなく、その人が組織に提供できる価値自体は、そのときのおかれた環境によって増えたり減ったりする。
 人の知識や能力も、時間的な影響を受けているのである。

 その観点で言えば、人も過去の実績ではなく現在の価値基準で評価されるべきである。「そろそろ、いい歳だから課長に」や「一旦部長になったんだからもう給与水準は落ちない」「若い人間にリーダーは務まらない」等の発想は、如何に多くの可能性を摘んでしまっているかと思う。ある意味ではこうした「流動性のない仕組み」がむしろ失敗は許されない風土を形成しているともいえる。時間や環境の変化でリーダーの資質がなくなったのであれば、それを他にふさわしい人材に明け渡す仕組みが必要である。人は誰しも自分が衰えた、ふさわしくない、とは思いたくないため、多くの人を巻き込んだ評価プロセスの仕組みがどうしても必要になる。

 人材の時価主義は、若手抜擢が目的でも、ダイバーシティが目的でもない。人材を評価するのに、年齢やその他の変数を考慮に入れるのではなく、現在のパフォーマンスやポテンシャルで評価するという意味である。リーダーの選出であるならば、その候補者に対する期待が一番高い人材にリーダーを選任する仕組みでもある。したがって、リーダーは20代の若者でも良いし、70歳でも構わない。その人のパフォーマンス次第では40歳で引退もあるし70歳で現役もある。若手の育成のために敢えて50歳台で早期に役職などを定年させる制度もあるが、これも時間だけを意識して人の能力や可能性を考慮しない、過去の遺産でしかない。

 今のその人の価値がどのくらいか。これが時価評価の基本である。
 そして、それを測るには、実はかなり難しい。

 私は、人を評価・登用したりする場合に重要なことは民主主義的なプロセスを組み込む必要があると思っている。キーワードは、「自薦・他薦」「貢献できることの公開」「360度(リーダーなら統治される側)評価」、「報酬の透明性」、などである。
 重要なことは、その人の現在価値を測るのが、これまでのようなその人の上司個人が100%決めるということがないようにする必要がある。3人寄れば文殊の知恵ではないが、多様な3名以上の評価者がいることが望ましい。それには、自分ができる貢献は何かを説明し、その評価基準も明確である必要がある。リーダー候補ならば、立候補したり他人が推薦したりする仕組みがあっても良い。
 
 本件は、持論である「デモクラシー型経営」のポイントの一つでもあるので、またどこかで続きをと思う。
 まずは、年功序列を一度壊して新しい秩序を考えてみること、そのベースにはほかの経営資源同様に「時間的価値」があること、あたりが重要であると思っている。