プロフェッショナルの意義

 先週1週間、休みを戴いて家族旅行に行った。家族で旅行したりするといろんなことが起こったりする。海外だと自分のつたない英語力ではちょっと説明が難しかったりすることも起きてちょっとばかり焦ったりする事もある。

 こうした海外旅行時や普段とはちょっと違う場所やシチュエーションに遭遇しそれを専門業者等に旨く対応してもらえるととてもありがたく感じると同時に、あるちょっとした気持ちになる。
 それは、如何に我々のちょっとした生活が、様々なサービス業のプロフェッショナリズムに支えられているかということである。
 
 例えば、送迎バスの運転。
海外のバスはかなり巨大なものもあるし、2連結のバスなんかも走ってたりする。それを運転しているのがローカルのおばちゃんだったりすると、ホンマに大丈夫なんか?と思う(失礼!)。習熟しているから本人にとっては当然だろうが、よくもこんな巨大なバスを連結して運転できるもんだとあらためて関心してしまう。

 あるいは、ツアーデスクや空港のデスクカウンター受付。なんでもないように思うが、様々な国籍の様々なタイプの人の要望やクレームを聞いたりしている。何ヶ国語も話すと同時に何ヶ国語でクレームや難しい調整をこなしている。これも正直自分が務まるかといえば、いささか疑問なくらいのハードな仕事と思う。
 
 実は、このサービスのプロフェッショナリズムのことを最初に感じたのは一昨年前の父が他界したときだった。

 家族が他界するというのはやはりとても大きな出来事で、どのような形であれ残された家族はその現実とその後の様々な手続き(病院や争議の手続きなど)をすぐに対応することは難しい。そもそも家族の死はきちんと弔いたいと願うのが当然であるにもかかわらず、多くの人はその当然に起こりうるであろう未来に対して準備をしていない(あるいはしなくない)ものではなかろうか。「そんな縁起でもない事考えたくない」という気持ちから、普段準備などしていないものである。
 自分のケースでも、たまたま家族の勤務先が葬儀屋と提携していたため事前に業者のめぼしだけつけていた。
 逝去当日、事前に頼んでおいた葬儀屋の対応はとても我々の心中を察した対応をしたくれた。葬儀として豪華にしたわけでもこちらが全くひどく動揺していたわけでもなかったが、全てが流れるようであり、且つ落ち着いたケアフルな対応をしていただいた。

そのときに、「これこそがプロフェッショナリズムではないか!?」と実感したのである。
 
 よく、プロフェッショナルはしばしば「士業」を引き合いに出される。これはこれで決して間違っていないと思う。
 例えば、税理士業は、一般人には難しい会計とそこから計算する税務について法律と一般事業者の橋渡しとなるサービスに他ならない。司法書士通関士も、おおよその国家資格の「士業」は、国の法律や業務を一般人が遵守したり遂行するときのプロフェッショナルな支援を行うものという事が前提になる。中には試験に合格しても実際にその職に付かなければ資格を名乗らせないものさえある。

 だが、プロフェッショナリズムというのは、そんなに難しいものばかりではないのではないか?

 本当に誰かが困っているとき、途方にくれているとき、どのようにして良いか分からなくなっているときに、熟達や習熟を持ってさわやかに且つ当然にその人を支援しナビゲートすることができること。

 これが私が感じるプロフェッショナリズムである。

 だから、プロフェッショナリズムは、どのような職業にも存在することができる。高収入や高学歴が要求される「士業」だけでなく、掃除やバスの運転だって同様である。サービス業と言われるものには熟達によるプロフェッショナリズムがあることが望ましい。

 そして、様々な人が、様々なプロフェッショナルサービスを行うことができる社会こそが、我々が望む社会なのだと思う。