多様性を認める覚悟

 生物多様性に関する世界的な会議が11日から本格的に始まったこともあり、『多様性』というキーワードが今後もさらに注目されると思われる。
 以前より、イノベーションや知識創造等の理論においては『多様性』による“ゆらぎ”や“カオス”等が注目されていたこともあり、『多様性』のキーワードは社会学や生物学のみならず経済界にももっと浸透していくのだろうと思っている。(「多様性」元年、かな:笑)

 『多様性を認める』というキーワードが時には「弱者救済」や「マイノリティへの配慮」と安易に理解されるリスクもある。個人的には「弱者救済」「マイノリティへの配慮」ともに大いに結構でどちらかというとそちらに加担したいのだが、『負け犬の遠吠え』と理解されて、今の権益を握っている人たちやメジャリティの人たちに議論に参加してもらえない、正しい認識がされない、というリスクもあると思っている。

 また、企業の中では、「『多様性を認める』ことが具体的な成果として目に見えるのか?」「ROIは?」(笑)等の話になりやすいため、結局は「成果を出している今の層や考え方が主流」となり、「多様性」や「異なる認識」というのは、なかなか日の目を見ることは難しいと考えられる。
 
 とにかく、「多様性を認める」とうのは、社会であれ、企業内であれ、とても覚悟の必要なことだと思う。
 
 他人の予期せぬ言動は、意外にストレスになることが多い。
 人はそれぞれにお互いのテリトリーやジャンルを意識して社会を形成するだろうし、逆に家族や組織で一緒になった場合には考え方が次第に同質化してくる。これは、言い換えれば多様化によるストレスを回避しているともいえるし、ストレスの回避行動自体は健康な人間の正常な状態といえる。
 つまり、多様性を進んで受け入れる行為は本来ストレスであり、当事者であればあるほどできれば回避したいものであるというのが本質だからなのかもしれない。

 クリス・アージリス教授の「ダブルループ学習」が難しい原因のひとつとして「組織慣性」があげられるが、「組織慣性」は多様性を受け入れることによるストレスの強さに関係しているのではないかと考える。多様性を受け入れるストレス(多様な意見や人を“バイアス”とみなしてしまうこと)がより強い組織ほど、「組織慣性」はよく働くのかもしれない。
 簡単に言えば、「A君はいつも“そもそも論”ばかり言う、ちょっとメンドクサイやつなんで、もう、この会合に呼ぶのはやめようぜ!」として、同調できるメンバーのみで組織の運営を図ろうとすることに近い。
 こうして事例を挙げると、「そんなぁ、心が狭い...」と思うかもしれないが、実はこうした事は自分自身も日常茶飯事的にやっていることに気づいてしまう(苦笑)。

 最近は、ポジティブ・アプローチとして、ワールドカフェやオープンスペース等の対話技法が盛んになりつつあるが、そのファシリテーションでは、「多様性を認める覚悟」が必要であろう。企業内のイノベーション担当もまた同様である。

 「多様性を大事にしよう!」「多様性こそイノベーションや改革の源泉」...

 言うはやすし、実行には多くの苦労や苦痛が伴う。
 こういう課題に対して、ファシリテーションを行う人には敬意を表さずにはいられない。
 心の広い人間にならねばと感じます...