成果主義賃金制度と経済学

 成果主義賃金制度はいつから始まったのだろう?

 古くは、テーラーの「科学的経営による出来高賃金制度」に始まり、日本企業にも10年前くらいからかなり浸透してきている。
そして興味深いことは、この成果主義賃金制度の浸透に比例するような形で、経済がデフレ化していることである。
 
 先日、勤務している会社で、「子供手当て」が廃止された。子供手当てだけでなく、多くの「手当て」が廃止され成果主義賃金体系にシフトしますと言う賃金制度にシフトした。一部では猛烈な反対もあったみたいだが、組合も了承してたため結局実施された。
 一部の社員からは、「国は“子供手当て”を出しているのになぜ会社がやめるのか?」という意見があったが、「国がやるからこそ会社ではやりません」みたいな堂々巡りの交渉となり多くの社員はきっとげんなりした事だと思う。会社内で社会の本質的な議論はできないのかと。
 とにかく会社としては「出来高給」にシフトしたいらしい。
(“出来高”を測るメジャーを整備することは未だに着手しないまま...)
 
 マクロ経済学の基本的な考えに、「乗数効果」がある。昨日、日銀が発表した「ゼロ金利政策」の金融政策も、「減税」の財政政策も、基本的にはこれによりただ“下げる”のではなく、投資と消費に再配分されることで、乗数効果による経済の拡大を意図としている。ちなみに「乗数効果」とは、最初に投資・支出された金額が、消費・再投資の経済循環の中で増幅され、最初の投資額を上回る国民所得が得られることを言う。そして乗数効果を表す計算式によれば、財政政策などにより国民の実質的所得が増えたとき、貯蓄よりも消費に回したほうが乗数効果が大きくなるとされている。
 
 企業がもし、真剣にデフレを止めたい、景気を回復したい、国民所得を増やしたい、と願うならば、それは消費性向(お金を消費にまわす傾向値のこと)の高い顧客の収入が増えることを考えねばならない。この場合の顧客は、そのまま家庭、つまり働く市民(会社の社員等)という事ができる。つまり社員に還元しないと経済は良くならない(民主党的な発想かな)。
 では、どのような社員に収入を増やすべきかというと、消費性向の高い人、つまり、「成長過程の子供が(複数)いる」「結婚したばかり」「浪費家」等である。消費意欲は景況感によって左右するが、子供の成長やこれから家庭を作る人たちにとっては、固定的な消費となる。
 こうした世代に所得を分配する必要があるが、現実には、ちょうどこの世代は就職氷河期世代であったり、成果主義の洗礼を受けたり、心の病になったり、という世代が多いのではないだろうか、と感じている。ワーキングプアも、この世代にも多いと聞く。

 非常にシンプルな意見だが、(限界)消費性向の高い世代には、手当てを施すことが、マクロ経済的に見れば望ましいと思う。成果主義出来高)給信者の中には、「仕事で成果が不十分にもかかわらず、養育費の手当が支給されて、結果収入が増えているのはおかしい」という意見もあるだろうが、これは仕事の成果の「報酬」は「お金」しか思いつかない貧困な発想を露呈しているに過ぎない。勿論、金銭でまったく報いないというのはおかしいが、金銭以外にも仕事の報酬はいくらでもあるはずである。

 成果主義賃金体系というのは、企業の一種のワガママではないだろうか?なぜなら、企業は社会の上に生存を許され、社会に貢献する商品やサービスで生計を立てている。つまり、社会あっての会社なのである。従業員は“できるだけ金をかけたくない”「会社の所有物」ではなく、“経済発展を担う”「社会から来た働き手」と認識すれば、その働き手に対して乗数効果を発揮できる所得を与えるのは、企業の社会貢献といえる。自社の貢献度合いだけによって社員の所得を決定する成果主義賃金体系は、「金がモチベーションの全て」という陳腐な発想の延長の制度である。以前、
 とあるコンサル企業の社長がその著書で、「私はこの会社を最も労働分配率の高い会社にしたい」と書いていた記事を見たときに、とても感動したことを覚えている。しかしそれは精神論なのではなく、上記のようなマクロ経済学の基本に裏打ちされているのかもしれない。
 
 昨今の大企業は、やれ「法人税減税だ」「雇用自由化(人件費圧縮)」だと言い、一方で「CSR経営が重要」等と言っているが、こういう輩ほど、企業の存続意義や社会における企業を考えたほうが良いと思う。「国際競争力を上げたい」というのと「利益率を改善し株主や役員への配当を増やしたい」というのは同義ではない。自国の社員を幸せにできない企業に中長期的な国際競争力がつくとは思えない。
 
 株式会社という制度によって、若い世代や国や社会の未来が犠牲になってはいけない。
 人類の長い営みにおいて、もしも「株式会社」の仕組みが社会にフィットしないなら、淘汰されるのはこの仕組みに困っている人々ではなく「株式会社」という発想のほうにならなければならない。