社会化する「会社」

 ここ数年で、会社は大きく変わりつつあるように思っている。

 改善しないデフレ経済下において、企業は生産性の追求やコストカットを重視するあまり、多くの犠牲を払ってきた。それらの多くは、イノベーションの創出の機会を阻むだけでなく、社員の心の病やハラスメント、モチベーションの下落、会社や組織に対する信頼やコミットメントの下落という形で如実に現れ始めている。

 他方、こうした動きの中で、最近ビジネス誌やWEBニュース、セミナーなどで発表される事例として多いのが、「業務生産性向上」よりも、「組織開発」「モチベーションアップ」「企業を元気にする事例」などが10年前と比較すると格段に増えて来たように思う。その中を覗けば、“社員のチームワークを改善した”“組織間の壁を取り払う”といった内容も多い。社内におけるソーシャルメディアの活用事例(特にSNStwitter系ツール)等はその最たる例といえる。そしてその先には「イノベーション」を見据えているという内容も多い。
 
 こうした事例を見ていくと、一つの傾向が見えてくると思っている。
 それは、企業の内部が「ソーシャル化」する傾向に向かっているということである。
 
 企業、あるいは会社は、昔から今でも「階層(ヒエラルキー)」があるのが当たり前で、知識や経験に優れ、組織の長たる「上長」が、その組織の構成員である「部下」に指示・命令することで、目標を立て実績を残すというのが当然の考えであった。「ホウ・レン・ソウ」(報告・連絡・相談 の頭をとった意)等はヒエラルキーと「上司」に対する考え方から来ている。
 ことさら日本では、学歴もあるが、年功序列がものをいい、経験の長い者で一定の成果(実際にはその上の上司の評価次第だが)をあげた者が組織の長となっていた。
 さらには、ほとんどすべては「男性」によるリーダーシップであり、「感情」よりも「論理」を重視する一方で、“縄張り”ごとの「管理」を強化するという志向が強かった。

 その時代のマネジメントは、「常に“正解”があり、経験によって“正解”に近づくことができ、そのために管理を強化する」ものであり、言い換えれば、「父性のマネジメント」であったともいえると思う。
 
 これが最近は上記のように、「社員のモチベーション」「組織のコミュニケーション活性化」「命令より信頼、指示・指導よりも対話やコーチング」とうように変化し始めている。日本はダイバーシティがイコール女性の社会での活躍推進とされやすが、案外マッチするのは、「家長父性マネジメントからの脱却」という側面が強いからかもしれない。
 
 私はこれが、「会社の“社会化”」だと思い始めている。そしてそれは、自分が会社員になったときに感じた違和感(=ほんの小さな違和感)がさまざまな人も同じような感じを思い出したり、持ち始めたからなのではないかと思っている。

それは... 

 社会は民主主義なのに、会社内にはなぜ「民主主義がない」のか?

 会社では、上司に評価されることで給与や処遇が決定する、社員はすべて平等ではなく、意思決定権は常に上層部にある。自分たちのリーダーを自分たちが投票等で選んだりはできない。また社内組織からも自分の意思で異動することも多くの場合難しい。社内の情報は与えられないこともある。上長に反論することは多くの場合で許されず経営陣と会話することなく数十年勤務する人も多い。自分の意思とは関係なく解雇や転勤を命令される。出勤の時間も帰る時間も決まっている。エレベーターの乗る順番や、食事の順番まで階層で序列が決まっている...

 このようなことは、会社の門をくぐった途端、「日常」となるが、会社の門を出れば「ありえない」事である。
 つまり、「会社」と「社会」は、そもそも「ぜんぜん違う」のである。
 
 この「違い」が、世代が変わり行くにつれて「理解に苦しむギャップ」となり、そのことがモチベーションを下げる要因となり、結果的には企業のパフォーマンスにも影響している。そして、今起こりつつある“潮流”は、それを逆に紐解くことにより、会社をもっと「社会」生活の普通の観念に近くして、人間らしさを取り戻し、その人間の集まりである組織を社会化し活性しようという動きに思える。

 こういえば、多くの企業で経営者である中高年以上の世代の方は、「甘い!」と切って捨て、こうした「社会化」を認めず、従来のヒエラルキーや規律にこだわろうとするかも知れない。成果を挙げるためには指示命令と効率化が絶対条件だと...

 だが、残念ながら、この動きは私は「進化」だと思っている。
 人類が生物である以上、またその生物が考えた「マネジメント」という発想でさえも、「進化」からは逃れるすべはない。

 「会社の社会化」は必然であり、経営は今後さらにデモクラシーを求められると思う。この「進化」は、「進歩」でなければならない、と思っている。