私の考える人事・・・その②

 多分、この②が一番ポイントというか一番言いたいところになりそうです。
 
 前回のその①で、マネージャー級の認定資格としての条件のような設定をしました。こうした認定条件を得たマネージャーの選定の方法を従前の手法から革新する必要があると思っています。
 それは...

 「投票で選ぶ」です。それも、同じ部門に所属するメンバーでの。
 
 Google等の企業では、新入社員を選ぶ基準として「コワーク(co-work)出来ること」を重視し、人事ではなく働く社員が面接に望むなどの手法を取り入れられている企業があります。
 これは決して特別ではなく、今そういう企業が増加しつつあります。
 
 最も影響力のあるビジネス思想家で1位になった、ゲイリーハメル氏は著書「経営の未来」で、『民主主義は統治される側がリーダーを選出するのに対し、マネジメントはそうなっていない。』と述べています。民主主義という手法がとても非効率で遅れているシステムだとしたら、何故これほど多くの国が採用しているのでしょうか?国のリーダーは統治される側が選ぶのに、どうしてマネジメントでは「誰かが秘密裏に」マネージャを選出するのでしょうか?
 
 これが今回の発想の元になっています。
(実はゲイリーハメル氏の書籍よりも前から、何故部下は上司に生殺与奪をこれほど握られているのか、と考えていたのでスッとこのフレーズは入ってきました。)
 
 これはある意味、ごく自然なことだと思いますし、きっとチームの生産性も上がるのではないかと思っています。
 
 私の所属する企業でも、また多くの企業においても、現在は役職につきたくない(若手)社員が増えているそうです。この事態をどう認識すればよいでしょうか?
 
 以前、自分が入社したときに10歳年上の上司に、「なぜ出世したいと思うのですか?」とベタな質問をしたことがあります。そのときの上司はこう言いました。
「出世をする理由は、自分が思っている仕事をもっと多くの人の力を借りて実現し成果を上げるためである。」
 企業は大事を成し成果を上げるために組織化するという話でした。
 
 そうして考えたときに、「上司になりたくない」というのは、つまり「大事を成す」「成果を上げる」という事がイメージできなくなっている証拠ではないでしょうか?
『慢性的リーダー欠乏症』とも言える状態ではないでしょうか?
 
 今リーダーに求められていることは、自ら業績を上げつつ、チームメンバーの支援を行うことで、上司にも説明責任を有し、オマケにステイタスは昔に比べ高くない(多様な生き方が増えてきたために、従前での大企業の『役職』という肩書きの価値が減少した)。
 一方で企業の事業はは従前のような社会的な善を提供する存在から、短期的な株主価値を上げるための収益性の高い一種の金融商品化することが、好まれています。(どのようなすばらしい事業コンセプトも、最後は収益性(→投資利回り)で判断されてしまう)
 
 これでは、リーダーになりたいと思う志の高い人がそもそも居なくなって当然で、チームはまとまりや使命感、貢献を意識するのではなく、誰がどれだけ稼いだか、収益を上げているか、に意識が集まるようになります。
 
 元来、階層(ヒエラルキー)があまり好きではない私ですが、もしもそれが必要とするならば、その志の大きさと実現意欲によって階層が作られるべきであり、そうした人材を皆で選出することで、組織やそこに所属する人たちは熟練し発展していくべきと思っています。
 
 ずいぶん前に、自分の所属する人事部門の役員に、360度評価を提案したことがあります。そのときにこの役員は「リーダーを選ぶのが単なる人気取りであってはならない」と、言いました。私は返す刀で、「今はリーダーを選ぶ上級管理職の『人気取り』で決まっているではないか!」と抗議したことがあります。数年後会社は360度評価の“マネゴト”を導入しましたが、リーダー選出手法は相変わらず変わりません。
 
 組織に、「立候補」と「選挙」の仕組み、を導入して、リーダーを選出するようにするべきです。