トヨタショックの本質

 連日トヨタ自動車の記事がメディアを騒がしています。
当初は、米国のバッシングとも言われたような内容から一点、リコールにより品質問題や日本の企業風土の「隠蔽体質」まで言われ始め、日本でも大きな社会問題に発展しつつあります。

 この記事の中で、田原総一郎氏がnikkei BP netの記事の中で少しばかり「自動車産業の改革」のような論旨の記事を発表されており、興味深いと感じました。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100209/209769/?P=2


 自動車産業に対する脅威は、例のリーマンショック以降、GMやフォードなどの経営破たん・再建の問題があり、トヨタや他の国内メーカーもとても大きな損害が発生したわけで、日米両政府は介入や減税などの措置をとり産業保護に努めました。
そこに勤める社員の雇用を確保するという「弱者救済」の観点から、正しい措置だったろうと思います。
 しかし、対極的に見ると、自動車産業というのはこの田原氏のコメントから思うに、改革の波が訪れなかった、言わば“進化に遅れた恐竜”であったのかもしれないと考えることができます。

 産業の本質は、おそらくいつの時代でも、人間社会にその製品やサービスが、質的及び量的に必要とされるかどうかにあると思います。必要とされる企業は存続し、そうでない企業は衰退する。
(質的な部分は当然として、量的なものもあると思う。例えば同じ品質の製品で社会のニーズがある商品でも、あまりにも多くの提供者がいれば、小さな差別化要素で企業の優劣が発生し、市場より退出を余儀なくされます。)


 改善ではなく、革新(≒イノベーション)はこの意味で必要とされるのかも知れません。

 
 リーマンショック以降、国内企業のケースでは、特に大きな雇用を抱える自動車業界や電機業界(→いずれも日本企業が強いとされていた輸出産業)に政府がエコカー減税やエコポイント等の財政政策を打ちフォローをしました。
 ここで重要な観点は何故これらの業界が特に大きな大打撃を受けたのかという視点だと思います。これらの企業が米国に頼る形の輸出産業だったという点は否めないのですが、私はこれらの企業の製品やサービスの質、量がそろそろ人間社会或いは地球環境に合わなくなってきており、『存在を認められなくなり始めている』兆候だったのではないかと考えます。


 その昔、フォードは分業と大量生産により廉価なT型を世に出しました。松下電器産業は、「水道哲学」により高品質な電機機器を次々と製品化していきました。
 いずれも、社会が“必要”としてきた商品を提供することで、「存在を認められた」のだと思います。
 大げさに言えば、世にある全ての企業の「売上」は、社会より“存在を許されている度合い”という見方も出来るのではないでしょうか?


 今、産業界での一つの潮流となりつつある、「公共善の提供」は、実は以前からもずっと経済・産業におけるもっとも重要な部分であり、今後も洋の東西を問わず、企業の大小を問わず、経営の意義に他ならないと感じます。


 今起こっている事象は全て“氷山の一角”なのかもしれません。