ワールドカフェに参加してきました

 5/22(土)〜5/30(日)まで、ワールドカフェウィークということで、5/26(水)に『DO IT ワールドカフェin東京』に参加してきた。
 
>ワールドカフェって?
http://world-cafe.net/about-wc.html
>『DO IT ワールドカフェ in東京』
http://www.doit-fun.jp/seminar/2010/detail/0526.php
 
 
 社内でも「会議のあり方」については議論されてきて、今主流な考えとしては、“如何に効率的な会議を目指すか”であった。そこで言われてたのは、「その場で通達等情報を共有する」「決めない会議は悪」「事前にアジェンダなどを用意し効率的に運用する」等であった。
 「会議を効率的にする」・・・この手の話で、コンサルタント等がたくさんの著書やblogやネット上の投稿もされている。
 
 しかし、前から自分としては腑に落ちない点があった。
 
●「決めない会議は悪」?
 会議は、意思決定の場といわれる。本当にそうだろうか?
正直、意思決定は会議ではし辛い。多様性がある人材が集まった会議では一つの結論に達することが、ほぼ不可能に思えるほどである。(国会審議など見れば顕著です)
 特にヒエラルキー色の強い企業で意思決定するなら、会議など最初から開催せず、通達すればお仕舞いで良いのではと思えてくる。(その場で反論できるならまだしも、出来ないなら最初から呼ぶな、と思う:笑)
 
●「会議で情報を共有する」?
 会議で情報共有することはままある。人間のノンバーバル・コミュニケーションの量は、確かに多いと言われている。だか、ノンバーバルで得られるものは、「効率性」の観点とは矛盾する感覚的なものが多く、効率的会議の目指すものとは違う気がする。
 会議でしかえられない情報(書類上にないものなど)は揮発性が高く、共有するのは情報というより、『場』の雰囲気に近い。
 

 会議とは何のためにするのか?
 
インターネットやブロードバンドの普及のおかげで、ネット上で意見をリアルタイムで話したり、動画や情報を共有できたりすることが容易になった現代で、わざわざ「会う」意味を考えるべきではないか?
 それが、ここ数年思っていたことだった。
 
 自分はずっと、逆だと思っていた。
 つまり、会議は「人と対話すること自体が目的ではないか」と。
 
 もしもそれが正しいとすれば、今の「正しい会議に対する常識」は全く異なるかもしれない。
 「会議」は...
◆対話が目的であり、結論についてはさながら重要ではない。
◆効率的である必要などなく、時間を区切る必要もない。
◆無理に結論を導かないので、相手を負かす必要も説得の必要もない。
◆議事録を「正確に」録る必要がない。
◆明確な議題が必ず必要ではなく、脱線しても良い。

 結果的に上記のようになる会議があっても、それを良しとされることはなかった。しかし、本来、会議は「対話」目的、又はそれを無意識の内に意図した状況で行われることが多く、そのため「効率的な会議」というのは、そもそも人間の『対話』の欲求とは異なる類の“儀式”に近いのかもしれない。

 デビッド・ボーム氏の名著、「ダイアローグ」中に、次の記載がある。
「対話とは、意味の流れであり、それを共有することは、人と人とをくっつける役割がある...」
 
 最近、出席している、FC(フューチャーセンター)や、ワールドカフェ、といった対話の作法は、異質且つ多様な人々が、互いにそこに一つの意味を共有し、解決困難な課題に立ち向かう人々が「くっつく」ことで、創発的な新しい意味を創造する可能性を持っていると思っている。

 そしてそれは、「答えのない」時代である現代にとって、「新しい形での会議のあり方」を示唆しているように、自分は感じている。