「知識余剰」社会を超えて

 雇用に関する問題は、まだまだ深刻の域を出ていない。

 最近もさらに深刻度を増している「リストラ部屋」問題や社内失業、就活を巡る様々な議論、ポスドクや新弁護士、会計士等専門家の就職難、そして“第三の矢”の成長戦略の目玉と言われている女性の就労問題。
 また企業内に目を向けても、各種のハラスメントの問題やブラック企業などもある。その裏返しとしてCSRCSVという動きや、“良い会社ブーム”という好ましい会社にフォーカスをあてる各種の活動もあるが、残念ながらこれまでの経営概念を覆すまでには至っていない。

 これらの問題は、個別にみても根深く多くの議論があるが、実態としての大きな原因があるのではないかと考える。その大きな原因の一つこそ、「知識余剰(Knowledge Surplus)」という問題ではないかと思いはじめている。

 「知識余剰(Knowledge Surplus)」とは、個々の人々が持つ知識ナレッジ(→この場合には暗黙知+形式知、つまり知識と知恵の総和)の量が、それを発揮することを受け入れる“場”よりもはるかに大きい、という状態である。この“場”は、企業や組織自体かも知れないし、ベンチャーや学術組織かも知れない。さらには非営利やコミュニティである部分もあるだろう。
 言い換えれば、「知識余剰」という問題は、この知識社会において「供給」となる個々人の知識(ナレッジ)が「需要」としての受け入れる場(企業や組織、機会など)よりはるかに大きい“需給ギャップ”の問題ということができるかと思う。

 もともと、日本は戦後の教育システムや一億総中流の観点からも、国民の教育水準や進学率は高く個人間の格差は少ない。そこから学歴主義や失われた20年の経験でより個人が知識を獲得しようと進学や資格の取得などにも励んでいる。日本の「勉強力」は社会人も含め、国際的にも依然として高い水準にあると思う。つまり知識社会における「供給」サイドは好不況とは別に増加し続ける。

 他方、需要サイドである企業や組織などはどうだろう?
欧米型の経営概念は、キャッシュを重視した「金」を中心の文脈にした結果、「選択と集中」を繰り返してきた。その結果残念ながら組織内における“知識活用の場”は「収益性」という概念に押し込められてきたと言える。またベンチャー資金やソーシャル組織への寄付なども含め、日本は米国の何十分の1のマネーしか動いていない。日本にアントレプレナーが少ないという話もあるがおそらくそれは「ニワトリが先か...」の議論に過ぎず、結果としてイノベーションの苗床となる「知識活用の場」はまだ育っているとは言い難い。

 そして重要な点は、この“需給ギャップ”には通常の経済学的な需給ギャップとは大きな差異がある点である。それは、「供給が大きいからと言ってそれを減らす」ということはできないという点である。スピードの速い現在のグローバル社会において、知識の発展を止めたり鈍らせたりすることなどありえない。さらに言えば人間が過去から学び未来をよりよく進歩させようということを停止することはあってはならない。
 つまり、この需給ギャップに対応するには、「知識活用の場」であるイノベーションを起こす組織を増やしていく以外にはない。これは単に、ベンチャー起業を支援するという文脈にとどまらず、既存企業の中においても様々な場を創る必要が出てくる。単に新しいものを作るだけでなく、既存の仕事や改善も必要かもしれないし作業や事務手続きだってその担い手は必要になる。そのような「担い手」は、日本にはたくさんいる。若手の優秀な人材のみならず、主婦やシニア、派遣で働く人たちや失業者の人も貢献することができる。

 「収益性」は組織や団体を維持していく“条件”では今後もあり続ける。
しかしそれが、“目的”化してしまうようでは、この「知識余剰」という状態は解消できず、結果さまざまな雇用や社会問題を生み出す原因になってしまう。

 「知識余剰を発展的に解消する」ことこそ、雇用とイノベーションを促進し、最終的には成長戦略につながるのではないか。これこそが、日本の抱える最重要なイシューの一つに違いないのではなかろうか。それこそが「知識活用の場」を創り、維持し、拡大していくことだと思っている。

 「知識活用の場」を創ることは、企業内外を問わず、いろいろな方法論がある。
社内のベンチャーを創ることあるいはそうした支援を行う事。女性や若手、シニア層の活用を新しく考えること。障碍者の雇用について考えることも意義がある。
 自分でベンチャー起業することはもちろん、そうした企業を支援することもいい。ソーシャルな組織に参画したりその支援を行う事も「場」作りとして同様に大切だろう。

 これからも、そのための活動を地道ながら続けられるようにしたいと思う。